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MIRROR METAPHER

「 鏡のメタファー 」

「鏡のメタファー」は、顔と何かをテーマにした2枚1組の絵遊びです。

 

最も身近にある興味深い対象として、メインテーマを「顔」にし、顔からイメージを膨らませた「何か」と「顔」を並列に置くことで共鳴しあう感覚を楽しむ試みです。

「百人一首」「かるた」「貝合わせ」「雛遊び」のような日本の古くからある遊びの伝統からインスパイアされて制作しました。

~個展「鏡のメタファー」に寄せて~

個展タイトルと二卵性双生画

2023年の大阪初個展は唐突に決まりました。そういうものなのかもしれませんが、降ってわいたような話でした。個展のタイトルについても考える時間はあまりなく、そもそも個展をするつもりで絵を描いていたわけではなかったので、タイトルを決めるのには戸惑いました。

グスタフ・ルネ・ホッケ著「迷宮としての世界 マニエルズム美術」(芸術出版社)という本を、個展タイトルに困った私を見かねた父が勧めてくれたのです。

「そういう本からヒントを得たら?」

 

古書です。大きな文字を想像して開いてみたら、思いのほか小さな文字がびっしり詰まっていて、しかも何が書いてあるかよく分からなかったです。とはいえ、藁をもすがる思いだったので、とりあえず開いたページを読んでみたら「鏡のメタファー」という単語が目に入った。それだけの理由で、個展のタイトルを決めました。

ヒントというよりも、まさに答えのような単語だったので、見つけた時は嬉しかったです。

私はずっと空回りした人生を送っていたように思います。何かが描きたいのに、描けないと思ってました。見えていることはたくさんあるけれど、それは現実の状況だとか、数だとか、位置だとか、そういうことではないものが見えている。そんな実感は常にありました。しかし、そういうことは、なかなか言葉では説明がつかないので扱いにくい。端から本当に見えていることは絵にできないと諦めて、ただ現実の状態や状況を分かりやすく説明するような絵だけが絵なんだと勘違いしていたんだと思います。

人には向き不向き、得意不得意があります。

私はどちらかというと説明がつかないようなことについて、感じたり、分析したり、観察するのが好きです。

そういうわけで、私の場合は絵が描きたいのであって、別になにかを図で説明したいわけではない。そのことにようやく気づいたのが2022年の終わりの頃でした。遅すぎるといえば遅すぎるのですが、仕方ない。開き直ってとりあえず何でもいいからと描いたのがたまたま顔だった。意図せず、何も考えずに顔を描いたのが始まりです。

なぜ顔なのか。考えてみたのですが、もしかしたら、卒業アルバムなのかもしれません。私は小さなころから引っ越しが多く、転校ばかりを繰り返していたので、幼馴染という存在がいません。友達という人たちとは常に別れてばかりでしたから、実際に会う事は叶わず、写真でしか会話が出来ない。そんなことが当たり前になっていたので、顔自体は現実や実体、触れることのできる表面というよりは「イメージ(非実体)」に近い気がします。だから何でもいいや、、、と思った時にポロっと「顔」が出てきたのかもしれないなと思います。

 

今、私にとって顔は、たくさんある絵の入口、扉のひとつです。一番近くて、開け方が分かっていて、そして遠くて、手に入らなくて、手ごろで、あいまいな扉。「鏡のメタファー」の2枚一組シリーズは、そのことに気づき始めてから、絵が動き出したのを感じて試行錯誤しているうちに出来上がった絵遊びです。「百人一首」「かるた」「貝合わせ」と同じような感覚。もっと言えば、「雛遊び」かもしれません。

ルールは、まず何でもいいから絵を描いているうちに現れる「顔」を拾う(つまり顔を描くということ)。そして、その顔を見ながら、その顔の何かを拾う(描く)。それだけでしたが、初体験でした。

何も見ず、目の前のキャンバスを見ながら絵空事で顔の絵を描いて、その顔の絵を見て別の何かを描いていくんです。そんなことが出来るのだろうか?と、そのルールを思いついた時は半信半疑でしたが、世の中には写真や実物を見て絵を描く人もたくさんいるのだから、自分の描いた絵を見て、まるで二卵性の双子のような、、、あるいは、天邪鬼な鏡のような、、、そんなへんてこな絵が描ける人がいたっていいじゃないか?となんとなく思ったのでした。

写真のように描くというのは、現実世界においては正しい鏡の在り方なのかもしれません。そして、写真と絵画が瓜二つになればなるほど一卵性双生児ならぬ一卵性双生画、あるいはクローン画に近くなるような、、、そんな感じがします。でも、それはわたしにはできない。

 

なぜできないか?

それは、描きあがる前に飽きてしまうからです。見えるゴールを描くのは、私にとっては苦痛です。完成するまで何が起こるか分からないから見たいと思う。見たいと思うから描かなければならない。だから描けるまで描く。一方、一卵性双生画やクローン画は、わたしにとっては描く動機や理由がないから描けないわけです。

 

だったら、できないことではないことをしたらいい。と思って顔を描き、その顔を見ながら、その顔のゆかりの場所やら所有物やら、、、そういうことを思いながら絵を描いてみたところ、27組。構成要素が全く違うのに隣り合うことでしっくりくる。まるで「二卵性双生画」のような絵が生まれました。

栃原比比奈

2023年9月9日

~個展「鏡のメタファー」画家OJUNさんからの寄稿文~

栃原さんとPAIR

画家がいま、絵に描きたいコトが二つある。さてどうするか?試しに一枚のカンバスにその二つを描いてみる。うまく納まったのなら実はどちらも描くに値しないものを描いたに過ぎない。たぶん。

そう、一枚の絵に描くことは一つ。とはいっても、絵の中は、いつだって二つどころか無数のものがひしめいている。絵具、筆触、形、思いの数々が重なり、隣り合わせ、鍔迫り合いを繰り返し、描いては消しの果てに点々と浮島か孤島のようなありさまだ。そんなカオスも少し離れて眺めると、リンゴや人に見えるのでぼくらはつい絵を見たつもりになっているが、それは画家も鑑賞者もそれと似たようなモノをいつかどこかで見たから解るのであって、そんなことはたいしたことじゃない。繰り返し描かれ見飽きた事物の離合集散が絵というコトになっているかどうかだ。ここに懸っている。それを二つと言うなら、二つごと、各各として二枚の絵を描くしかない。それを取り持つのは「縁」。で、「ペア」が生まれる。

栃原比比奈さんは、現在美学校で長谷川繁さんの教室で学んでいるがそんな絵を描く画家の一人だ。

顔と顔じゃない絵が並んでいる。人の顔とピッチ(サッカー場)とか、人の顔と夜や昼とか、人の顔とX線写真なんてのもある。顔の絵はお約束なのだろうか。でも栃原さんの絵を見て“いろいろな顔がありますね”、“いろいろなものをお描きですねえ”では終わらない。

栃原さんはこれらの作品に『mirror metaphor』と言うタイトルを付けている。さらにその絵に描かれている状況?様態?を暗示するような副題を配している。二つの絵は、何らかの対応関係にあるということなのだろうか。鏡を見て映る「わたし」との対応物として「これ」なのだろうか。

対応関係は双方が向き合うまさに鏡像の関係だ。栃原さんは人が鏡に自分の顔を写すように顔の絵を描く。さらに自分が見た顔以外のモノ(場所とか物とか)をもう一枚描く。この時、絵に描かれた顔と顔じゃない絵はどちらも描かれた各各一枚の絵として等価だ。「わたし」によって描かれた二つの異なる絵がともに各各を充実させているということだ。次に描かれた絵同士を壁に並列する。これは「わたし」と絵が向き合って描かれた二つの絵を「わたし」が見終わった後にもう一人の誰か(ここでは鑑賞者)に向けて見せている。筆者はいまその二枚の絵を見ているのだ。向き合う者(モノ)同士の態勢の入れ替わりがあってけっこう複雑だなと思う。タイトルをなぞるように絵の道順を辿ってみたけれど、いっそ副題だけにするか無くした方がよい気がする。二つの絵のワケと描かれているイメージの豊かさを楽しむ前に近道を照らされてしまわないかちょっと心配。

これを見た、あれに触れた、こう思う、「わたし」(栃原比比奈)が「この顔」を描き「ピッチ」を描いている。水彩、油彩それぞれの効果とともに絵だからこそ可能な位置や距離の反転を遊んでいる。で、その絵を互いに隣に並べてみた。それだけのことだ。ただそれだけのことが、へたな思わせぶりや駆け引きなしに一つコトとして描かれた二つの絵だから並び立つ。二つの絵をちゃんと描いたことへのご褒美だと思う。なので、“関係性”なんて、なにも言ってない屁みたいなものではなく、ここはきちんと「PAIR」と言いたい。

描かれた二つの絵からこんどは栃原比比奈さんが証明される番だ。

O JUN

2023年7月7日

ステイトメント(2023)

1枚の絵を描くのにこう描かなければならないという決まりごとはない。
何を描いてもいいし、どう描いてもいい。

わたしは顔を描き、その人の何かやどこかを描いている。

なぜ?と問われると少し困る。
それは、確かに顔や何かどこかを描いているように見えるけれど、
本当はそうでもないからだ。

世界は1つではなくて、常に内と外とは隣り合っている。
明るい場所があれば暗い場所もある。
本当もあれば嘘もある。

いびつな顔の中には想像力をかきたてる何かがある。

何を描くかのゴールを決めず、「イメージをどう描くか」という問いに向き合うこと。
コントロールしすぎず、アクシデントや偶然起きたことをどう活かすか。

ペインティングがわたしをつくりあげていくような気分で、
顔のような風景のような抽象のような何かを発明したり、壊したりして絵が絵になる。

どこに向かって何が起こるか、わたしにも分からない。
どう対応するかを考えて行動することが、わたしの絵の全てだと思う。
何を描くかではなく、どう生み出すか。
どう描いて、それをまた何か別なものに変換するか。

絵はわたしにとって常に変化し続けるプロセスであり、
無限の可能性を感じさせる場所だ。

 


栃原比比奈
2023年7月4日

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